戊辰戦争、白虎隊、新選組・・・会津の歴史を知る
戊辰戦争、白虎隊、新選組など数々の歴史ドラマの舞台となった会津若松。会津人の根底にある教えを知れば、より歴史の理解を深めることができるかもしれません。会津戊辰戦争って何?
会津を治めた武将たち
中世、葦名氏が長く会津を治めていましたが、1589年伊達政宗によって滅ぼされました。しかし政宗は豊臣秀吉に疎まれ1年余りで会津を去りました。会津は東北の要とのことから秀吉は文武両道に秀でた蒲生氏郷を配し92万石の石高を与えました。氏郷は七層の天守を築き産業を興し、城下町を整備。しかし、蒲生時代は長く続かず、秀吉が次に指名したのは徳川家康のライバル、上杉景勝でした。上杉も関ヶ原の戦いの後、会津を追われ、後に会津の藩主となったのが、3代将軍家光の異母弟の保科正之です。4代将軍家綱の後見人も務め数々の業績を残すなど、近年高く評価されています。
白虎隊の悲劇
*カギ部(「会津藩蘇生白虎隊士の事跡」飯沼一宇氏/会津会会報119号/より)
新選組と会津藩
什の掟「ならぬことはならぬものです」
会津人の根底にある教え
よく会津人は頑固だと言われますが、その根底には「什の掟」の最後に記される「ならぬことはならぬものです」といった精神的支柱があるのかもしれません。つまり、理屈ではなく「ダメなものはダメ」、という教えに基づく厳しい考え方です。会津藩では次代を担う青少年の教育にことのほか熱心でした。学問好きの藩祖保科正之の影響が大きかったのでしょう。家老田中玄宰の進言で5代藩主松平容頌の寛政2年(1805)には藩校日新館ができました。「什の掟」は日新館入学前の藩士の子弟が毎日午後に仲間の家に集まり、遊びの前に話し合う自治的な定めです。現代では通用しない内容もありますが、その考え方や掟の価値は再び注目されています。市内河東町には忠実に復元した會津藩校日新館があり、当時の少年たちの勉強ぶりを知ることができます。また、鶴ヶ城の西の藩校跡地に当時の天文台跡が残っています。