輝く赤瓦の名城 鶴ヶ城を見る
会津若松市のシンボルである鶴ヶ城、その天守閣は市内のほぼ、どこからでも望むことができます。赤瓦や石垣、茶室など、みどころも豊富。市民公園になっているため、朝の散歩やジョギングなどを楽しむ人々の姿も見られます。市民の憩いの場として現代の生活に溶け込みながら、会津の歴史を今に伝えています。(撮影者:松永圭太)
鶴ヶ城に登ろう
会津若松市のシンボルである鶴ヶ城は室町時代の初め、今から約630年前の至徳元年(1384)に葦名直盛が東黒川館として造営したのが始まりとされています。お城といっても当時は天守はなく、館程度でした。その後、伊達政宗が城主となったあとは、蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津を治め、七層の天守を築きました。
江戸時代に入り、会津で大地震が発生。被害を受けた天守は大改修され、現在と同じ五層の天守となりました。幕末の戊辰戦争では新政府軍の猛攻に耐え難攻不落の名城と称えられましたが明治7年、政府の命令により取り壊され、現在の天守は昭和40年(1965)に再建されました。内部は博物館になっています。五層からは会津若松市街地や会津盆地、磐梯山が一望できます。
江戸時代に入り、会津で大地震が発生。被害を受けた天守は大改修され、現在と同じ五層の天守となりました。幕末の戊辰戦争では新政府軍の猛攻に耐え難攻不落の名城と称えられましたが明治7年、政府の命令により取り壊され、現在の天守は昭和40年(1965)に再建されました。内部は博物館になっています。五層からは会津若松市街地や会津盆地、磐梯山が一望できます。
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なぜ、赤瓦の屋根に?美しい赤瓦の秘密
白虎隊も仰ぎ見た赤瓦の天守閣
2011年3月、天守の屋根を45年ぶりに葺き替え、それまでの黒瓦が赤瓦になりました。赤瓦は会津松平藩の藩祖保科正の時、慶安元年(1648)頃に葺き替えられたことが記録されています。表面に釉薬を施して焼いた赤瓦は強度があり、会津の冬の厳しい寒さ、凍結にも耐えることができたようです。明治7年(1874)7月に天守をはじめ、鶴ヶ城内の建造物を取り壊されました。その6年前、戊辰戦争を戦った白虎隊の少年たちも、この赤瓦の天守を仰ぎ見たことでしょう。
大地震に耐えた天守閣の石垣
城に石垣は付きものですが、築き方が時代によって違います。鶴ヶ城の石垣を年代的に見ると、一番古いのが天守閣の石垣で、蒲生氏郷が築いたものです。専門的には「野面(のづら)積み」という石の積み方で、自然石を組み合わせて積み上げます。傾斜が緩やかで、裾野が広いのが特徴です。
さて、今から約400年前の慶長16年(1611年)8月21日、会津盆地の西縁を震源とするマグニチュード6.9、震度6以上と推定される大地震が発生しました。民家2万戸が倒壊し、多数の死者も出る大惨事でした。七層の天守閣も傾きましたが、天守閣の石垣は持ちこたえたそうです。実際に見てみると、こんな粗い積み方で大丈夫だったのだろうかと思いますが、当時の築城スペシャリストの技には驚嘆してしまいます。
さて、今から約400年前の慶長16年(1611年)8月21日、会津盆地の西縁を震源とするマグニチュード6.9、震度6以上と推定される大地震が発生しました。民家2万戸が倒壊し、多数の死者も出る大惨事でした。七層の天守閣も傾きましたが、天守閣の石垣は持ちこたえたそうです。実際に見てみると、こんな粗い積み方で大丈夫だったのだろうかと思いますが、当時の築城スペシャリストの技には驚嘆してしまいます。
鶴ヶ城散策の楽しみ方
お城のある街、城下町って何となく響きがいいですよね。会津若松市民にとって、鶴ヶ城は誇りであり、憩いの場所でもあります。市内のほぼ、どこからでも天守を望むことができます。鶴ヶ城内は天守と麟閣を除けば、どこでも無料で入ることができます。市民公園にもなっている鶴ヶ城ですから、早朝からジョギングやウォーキング、散歩を楽しむ市民がやってきます。
場内の見どころは本丸の東南にある「荒城の月」碑やすぐ上の月見櫓から朱色が鮮やかな廊下橋を見下ろす景色。東面の高さ約20メートルの石垣が見事です。他にも東の郊外慶山地区から鶴ヶ城まで、遊女を上に乗せて運んだという巨大な「遊女石」などエピソードにも事欠きません。
場内の見どころは本丸の東南にある「荒城の月」碑やすぐ上の月見櫓から朱色が鮮やかな廊下橋を見下ろす景色。東面の高さ約20メートルの石垣が見事です。他にも東の郊外慶山地区から鶴ヶ城まで、遊女を上に乗せて運んだという巨大な「遊女石」などエピソードにも事欠きません。
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会津は千家茶道復興の地_茶室麟閣
春は桜、秋は紅葉がよく似合う
千利休の子、少庵が建てたと伝わり、戊辰戦争後、市内に移築されたものを、平成2年に元の場所に移築・復元したものです。内部の床柱は少庵みずから削ったとされます。千利休が豊臣秀吉から切腹を命ぜられた後、千家茶道が途絶えるのを危惧した蒲生氏郷は少庵を会津へかくまい、秀吉に千家再興を願い出ました。この結果、少庵は京に戻りその後、子孫は表千家、裏千家、武者小路千家と3つに分かれ、連綿として今に続いています。 (撮影者:松永圭太)
鶴ヶ城で散策を楽しみましょう
鶴ヶ城のお堀の水はどこからくるの?積まれた様々な石垣にはどんな違いがあるのか?などなど鶴ヶ城にあるあるさまざまなスポットや由来をご紹介します。
大手門(おおてもん)
鶴ヶ城にある「武道場」とは…
鶴ヶ城武者走り
鉄門(くろがねもん)
本丸には何があったのか?
天守の土台(石垣)
さくら名所100選の地
名曲「荒城の月」作詞のモチーフは…
櫓(やぐら)に茶道具を収める
見事な石垣
八重さんの像
鶴ヶ城お堀の水の入口