2013年 大河ドラマのヒロイン ハンサムウーマン
新島八重とは
平成25年大河ドラマ「八重の桜」の主人公に会津藩士の娘で、同志社大学創始者・新島襄の妻“新島八重”が決定しました。
動乱の幕末から激動の明治期を自分らしく生きた新島八重。八重には3つの呼び名があります。それは、常に時代と向き合い自分の生き方を貫いた証ではないでしょうか。
華麗な変身を遂げてゆく八重の生き方、後世に残したメッセージを辿ってみましょう。
1887年洋装姿
1887年洋装姿
【幕末のジャンヌダルク】~弟の死、故郷の喪失
1845年、会津藩砲術師範の父・山本権八と母・佐久の娘として生まれる。幼少の頃から勉学に励み、会津藩に忠誠を誓い、世に恥じない立ち振る舞いをすること、そして立派に死ぬことを教えられて育つ。鳥羽・伏見の戦いで負傷し、亡くなった弟・三郎の形見の装束を身にまとい、銃を片手に圧倒的な勢力を持つ西軍を相手に凛々しいまでも勇ましく戦った。その姿は「ジャンヌ・ダルク」を思わせる。
晩年に籠城時の姿を再現して撮影
晩年に籠城時の姿を再現して撮影
【ハンサム・ウーマン】~新女性としての生き方
1871年、兄・山本覚馬のいる京都に移住した八重は、英語を学び、洋服を着こなし、帽子を被り、靴を履き、明治の新女性として、また女性教育者として活躍。洗礼を受けてクリスチャンとなった八重と、帰国子女の新島襄は京都で初めてのキリスト教式の結婚式を挙げた。男尊女卑の時代の中、男女平等を望み時代をリードする八重の生き方は、まさしく「ハンサム・ウーマン」と呼ぶにふさわしい。
正装の八重
正装の八重
【日本のナイチンゲール】~幸せでなくてはならぬ
夫・新島襄の死後、日本赤十字社の社員となった八重は、日清戦争・日露戦争時は篤志看護婦として従軍し、傷病兵を看護。その後もさまざまな形で社会福祉に尽力。その功績をたたえ「日本のナイチンゲール」と呼ぶ人もいる。晩年は茶道に親しみ穏やかに過ごした。
江戸、明治、大正、昭和と激動の時代を常に前向きに生き、1932年87歳で波乱万丈の生涯を閉じた。
八重と篤志看護婦
八重と篤志看護婦
生誕の地
山本覚馬・新島八重の生まれた地が鶴ヶ城の西、現在の米代二丁目にある。そのまわりには八重が射撃を指南した白虎隊士伊藤俤次郎、幼馴染の日向ユキ、のちに斎藤一の妻となった高木時尾の住む屋敷もあった。現在は住宅地となっており当時の面影はないが、1989年5月30日に山本覚馬・新島八重の生誕地碑が同志社大学により建立された。
山本覚馬・新島八重の生誕地碑
山本覚馬・新島八重の生誕地碑
鶴ヶ城
至徳元(1384)年、葦名直盛が、現在の場所に東黒川館を建てたのが始まりといわれています。文禄2(1593)年、蒲生氏郷が7層黒塗りと想像される 天守を建て、鶴ヶ城と名付けました。寛永16(1639)年、加藤明成が西出丸と北出丸を増築し、現在と同じ5層白塗りの天守になります。その後、保科正之が入封した際、雪国でも割れにくい赤瓦へと葺き替えられました。
難攻不落の名城とうたわれ、戊辰戦争の際には、ここで1か月にもおよぶ籠城戦が行われました。八重も弟の仇を討つため、また主君のために、男装して籠城戦に参加。夜襲で敵陣に切り込むなどの大活躍を見せました。
戊辰戦争後は、明治政府によって破却を命じられましたが、昭和40年に再建。平成23年には、戊辰戦争当時の赤瓦に葺き替えられ、八重も見ていた当時の城が甦ることとなりました。
鶴ヶ城と桜
鶴ヶ城と桜

八重の桜|会津若松市  八重の桜~八重のふるさと福島