幕末を駆け抜け そして散った武士
「誠」とは「忠義」なり
新選組の誕生と会津藩との関わりには宿命的と言えるものがあります。会津藩は、徳川三代将軍家光の異母弟である藩祖保科正之公の遺訓によって、その運命を大きく変えることとなります。「大君の義、一心大切に、忠勤を存すべし。列国の例をもって自らを処るべからず。もしニ心を懐かば、即ちわが子孫にあらず。面々決して従うべからず。」この家訓第一条が、いかなる諸事情があろうとも徳川家へ「忠義」を尽くす会津藩の根源であり、第9代藩主容保もこれを貫こうとしたのです。一方、多摩の郷士であった近藤勇ら「壬生浪士組」の本意は、武闘行為ではなく「尽忠報国の誠」を果たすことにありました。また、彼らは出自が郷士であるだけに武士として士道に生き、軟化した武士達よりも武士らしい生き方を望みます。そして彼らが武士(もののふ)として理想としたものは、連綿と受け継がれた会津藩の士道「忠義」であったのです。この宿命的で至純な誠心から出た「義」によって会津藩と壬生浪士組は幕末の京都で結ばれ、会津藩御預として「新選組」が誕生することとなります。彼らは、王城の護衛者として粉骨砕身、ともに働き、士道に殉じることで、その筋を通し「忠義」を尽くしたのです。
会津藩 家訓(かきん)
会津藩 家訓(かきん)
開国と京都守護職 ~会津藩の宿命~
アメリカの開国要求に対し、老中阿部正弘は諸大名にも意見を求めるなど、政治や外交への有力大名の発言力を強めてしまうこととなりました。また、開国以後、尊王攘夷派の水戸の浪士たちに大老井伊直弼が桜田門外で暗殺されるなど、幕府の権威はますます傷ついていきました。幕府は、権威を回復するため、朝廷と融和を図る公武合体政策をとり、14代将軍家茂の夫人として孝明天皇の妹和宮を迎えることとし、文久3年(1863)3月、将軍徳川家茂が上洛することとなりました。しかし、京都市中は、尊王攘夷派の浪士たちによるテロが横行し、治安が非常に悪化しており、幕府は、京都守護職を新設し、強力な藩をもって京都の治安維持にあたらせることとしたのです。そこで会津藩に白羽の矢が立てられました。藩主松平容保は病床にあったため、何度も辞退しましたが、越前藩主松平春嶽は、藩祖である保科正之の遺訓を持ち出し説得を続け、家老の西郷頼母らが、まるで薪を背負って火中にとびこむようなものと、容保へ辞退を迫る中、将軍家への忠誠を重んじ、君臣ともに京都の地を死に場所としようと決意し、ついに京都守護職を拝命しました。そして文久2年(1862)12月24日、会津藩主・松平容保は藩士千人を率いて入京したのです。
第9代藩主 松平容保
第9代藩主 松平容保
清河八郎の画策「浪士組募集」
文久2年(1862年)12月、出羽庄内出身の浪士、清河八郎の建言により、幕府は、関東及び周辺諸国の浪士の募集に踏み切りました。翌年3月に控えた将軍徳川家茂の上洛の警護にあたらせ、京都の治安回復の一翼を担わせようとしたのです。清河自身が浪士組240名余りを率い、翌年2月に上洛しました。しかし、この浪士募集策は、もとより攘夷倒幕派であった清河八郎の画策でした。本意は、浪士たちを攘夷の先兵とし、横浜の外国人居留地を襲撃するというものでした。京都へ到着するや否や、幕府ではなく尊王攘夷の先鋒部隊であるという内容の上表文を提出したのち、壬生新徳寺に浪士たちを集めると攘夷実行に備えるため江戸に戻ると演説しました。この事態に憤慨した幕府は浪士たちを江戸に呼び戻しますが、これに反発し、本来の目的を果たそうと京都に残留を希望するグループがありました。のちの「新選組」です。江戸に戻った清河八郎は、4月、幕府の放った刺客、佐々木只三郎らに暗殺されることとなりました。
(京都)新選組壬生屯所旧跡
(京都)新選組壬生屯所旧跡
新選組の誕生「会津藩御預 新選組」
文久3年(1863)2月4日、幕府の募集によって小石川伝通院に浪士たちが集まりました。この中には、のちの新選組の中心メンバーとなる天然理心流近藤道場の近藤勇をはじめとする土方歳三、井上源三郎、沖田総司ら、また、芹沢鴨を中心とする水戸派の浪士たちの姿もありました。浪士240名余りは中山道を京都へ向かいました。上洛後の2月29日、浪士たちに対し、清河八郎は、一転、浪士募集の本来の目的と異なる主張をします。大勢はこれに従い江戸に帰還しましたが、近藤勇の一門と芹沢鴨一派らは、将軍の警護の目的で参加したのだ、と主張し、京都守護職への残留を希望し、清河と対立します。「しいて江戸にたたれるにおいては、われらは同志※13名だけは京にのこり申す」(末記)という芹沢に対し、清河は怒り、畳を蹴って席を立ったといいます。たとえ幕府から禄位はなくとも、という覚悟で、芹沢と近藤は鵜殿に京都残留を願い出ます。「私共の体がどのようになっても京師に止まりたいと申し上げると、鵜殿鳩翁は関心を寄せ、すみやかに松平肥後守殿(容保)にその旨を達した。肥後守は大いに喜ばれ、これまでどおりに経費を下され、※14人の者は京師に止まるよう御沙汰された」(浪士文久報国記事)と、容保公から京都守護職預かりの肩書きをもらい3月12日、ここに新選組の前身である「壬生浪士組」が誕生したのです。
※人数文献によって異なる。
(京都)京都守護職本陣旧跡 金戒光明寺
(京都)京都守護職本陣旧跡 金戒光明寺
新選組の活躍 京都編
会津藩の御預となった壬生浪士組は、文久3年8月18日、会津藩の命により御所へ出動し、尊攘派の公卿7人と長州藩を京都から追放とするという朝廷内のクーデター「八・一八の政変」において活躍します。その直後、壬生浪士組は、会津藩より武家伝奏に伝えられ、「新選組」と命名され、あわせて京都市中警護を命じられました。翌年には、尊攘派浪士の古高俊太郎を捕らえ、京都市街を焼き放ち、松平容保公をも殺害しようと計画していた長州系の浪士たちの陰謀を自白させることに成功。三条小橋の旅籠池田屋に参集しているところを急襲し、事なきを得ました。この池田屋事件で新選組は一躍有名となり、のちに、この事件により明治維新は1年遅れたとまで言われています。
(京都)池田屋騒動之址
(京都)池田屋騒動之址
新選組の活躍 会津編
新選組は、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争に参戦するも、無念の敗北を繰り返しました。甲州勝沼戦争を経て、近藤勇が西軍へ投降してもなお抵抗し、戦争の舞台は宇都宮さらには会津へと移ります。会津においては、負傷した土方歳三に代わり、斎藤一が隊長を務めることとなりました。白河方面へ出陣し、白河関門の守備にあたりました。猪苗代町の母成峠において、会津藩士や新選組隊士を含む800名と西軍3000名とが交戦しました。旧幕府軍の敗色が濃厚な中、土方歳三は援軍を求めて、単身仙台へ向かいます。会津に残ることを主張した山口次郎(斎藤一)ら一部の隊士は、市内如来堂において西軍に急襲され全滅したと言われています。(実際には何らかのかたちで脱出し、その後も生存しています。)翌年、土方歳三の函館での戦死をもって、史上最強にして最高の剣客集団「新選組」は武士の時代とともに終焉を迎えました。
新選組殉難地 如来堂
新選組殉難地 如来堂

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